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    挑戦の記憶 Back to 1969年

    FAIRLADY Z

    高度経済成長期のまっただ中にあった1969年、一台のスポーツカーが発表される。 世界中で熱狂的な支持を受けたフェアレディZ誕生のいきさつを”ミスターK”こと片山豊氏にうかがった。

    片山 豊 Yutaka Katayama

    ●1909年生まれ。1935年に日産へ入社、横浜工場でダットサンの第一号車が完成する現場に立ち会い、大いなる感銘を受ける。第二次大戦後、当時はまだその意義が認められていなかった宣伝の業務を志願した。1960年、50歳にしてアメリカ勤務を命ぜられる。在任17年間で、年間販売台数が1500台だった日産を、アメリカにおける輸入車売り上げ1位のメーカーに引き上げる。その功績が認められ、1998年に米国の自動車殿堂入りを果たす。

    自動車は、暮らしをともにする馬のような存在なのです。

    1970年、当時はロサンゼルスに置かれていたアメリカ日産の本社が、ちょっとした騒ぎになっていた。この年よりアメリカでの販売が始まった「ダットサン・240Z(フェアレディZ)」が爆発的な人気を博したのだ。当初用意した2千台はあっという間に完売、販売店からは連日、「もっとよこせ」という矢の催促が寄せられた。
    アメリカ日産の社長として、フェアレディZの開発において中心的な役割を果たした片山豊氏が振り返る。
    「アメリカ人は、自由に長距離を移動できるスポーツカーを求めていました。そこで本社に提案したのです」
    片山氏は、まずデザインにこだわった。雄大な大地に負けないダイナミックな造形にするために、ノーズが長いシャープなデザインを採用した。また、長距離をハイスピードで駆け抜けるために、エンジンやサスペンション、ブレーキの強化にも努めた。「日本のエンジニアを呼んで、アメリカのモータリゼーションを経験させるようなことも行いました。実際に経験しないとわかりませんから」

    世界中のクルマ好きから「フェアレディZの父」として慕われる片山氏であるが、功績はそれだけではない。日本でモーターショーを開催したのも、自動車メーカーが積極的にモータースポーツにかかわるようになったのも、片山氏の影響が大きいのだ。「Zカーが北米で人気となった背景には、ラリーでの経験があります。マシンを修理しながら走らせたラリーの経験から、アフターサービスを徹底する仕組みが生まれたのです」
    優雅なデザインと優れた性能、そして充実したサービス体制と手頃な価格を備えたフェアレディZの人気は、アメリカだけでなく全世界へ広がった。「人間は、何千年にわたって馬と行動をともにしてきました。同じ屋根の下で暮らし、家族のように接した。クルマはそんな馬の代わりですから、人間にとって大切なものであるはずです」当時の日本車のセールスポイントは、安くて壊れないこと。けれどもフェアレディZは、日本人が”愛されるクルマ”をつくれることを証明した。

    ※本記事は2011年8月2日時点の情報を元に作成されております。